1. HOME
  2. 歴史② 金沢「香林坊」

金沢「香林坊」とのつながり

掟光寺が今の地に建てられる前には
越前国、朝倉家家臣の佐々生光林坊(さそうこうりんぼう)一族
掟運(じょううん)、掟俊(じょうしゅん)親子が
この地に「平吹城」を築いていた。
しかし、不運にも一向一揆により、城は焼き討ちに合い、
70年の繁栄は終わりをつげ、一族は絶えてしまった・・・

と思われていた。

実はその一族の末裔が生き残っていることが433年ぶりに
分かったのである。子孫たちは先祖の無念を胸に、
そのことを隠しながら、その才能を発揮し、
ついには金沢の前田利家公に仕えることとなる。
そして、現在の金沢「香林坊」の地に館を構え、
今の「香林坊」の地名の由来になっていたのである。

佐々生光林坊の一族
(さそうこうりんぼう)

 佐々布光林坊掟運は、宇多源氏(うだげんじ)佐々木16代の後裔であり、代々、江州(近江)に在城しました。掟運幼少の頃、父と死別、領地没収、家名断絶、流浪の孤児となりました。親類に比叡山の行者僧正に昇進する僧がいて、その弟子となり、後に千日回峰行の成満者となり、権大僧都大阿闍梨に叙されました。

 時の天皇第104代後柏原天皇(第103代後土御門天皇の第1子)その玉体おだやかならず、御快復を願って比叡山にご祈祷の依頼がありました。光林坊掟運は代表としてご祈祷を行い、その験(しるし)有って、天皇はご快復あそばされました。その褒美として越前日野山と麓の平吹郷に領地を賜り、500町歩の土地田畑と共に、旧家来を呼び戻し、朝倉氏の家臣として親子2代、掟運・掟俊と70年間居城することになりました。

 1574年(天正2年)一向一揆勢に攻められ、火をはなたれ一日一夜にして焼失、敦賀に逃れる際に現在の南越前町ホノケ山頂の菅谷峠(塩の道)で追ってに囲まれ、殿様と下臣数名と共に自害したのを最後。佐々布光林坊家は史料から姿を消しました・・・

前田利家公と
光林坊(向田家)

 時代は流れ、2006年の秋、433年振りに奇跡の大発見に至る。金沢歴史研究家西田隆一氏や、香林坊アトリオ専門店街会長雨坪各男氏、その娘貴子氏によって香林坊家記や小橋天神記、加能郷土辞集から金沢野田山に墓地が発見されました。実は滅んだと思われていた光林坊掟俊の子息が(天正2年)京都へ落ち延び、比叡山の回峰行者と成って、北陸路を往来していたのでした。そして、親縁である元朝倉家の家来、向田兵衛の住む石川郡(現・手取ダムの辺り)に宿を借りるうち、娘の婿養子に入り、向田(むこうだ)を名乗ったのです。

 そんなころ、不思議なことに向田兵衛の夢枕に毎晩地蔵尊が現れ、そのお告げに「金沢城の鬼門に行って丸薬を売れ」と霊告されていました。その頃、加賀藩初代藩主、前田利家公は、1580年(天正8年頃)眼病を患っていました。目薬の秘法を知っていた2代目向田氏は薬を調合し、利家公に献上し、たちまちその病状が治ったのです。向田氏は眼病を治した褒美として屋敷地を拝領し、「光林坊」と名を賜りました。しかし、4代藩主が徳川家光公より前田「光髙」という名を賜り、光林坊家は殿様と同じ「光」の字ではもったいないと遠慮して、後に「光」を「香」に変え、「香林坊」と名乗りました。

 向田家初代は丸薬師、2代は町役人、3代は藩の勘定役人を務め、加賀百万石の城下町で9人の町年老の筆頭として活躍しました。平吹城を出て金沢で14代、明治の終わり頃に金沢を出て岐阜、京都に商売をして栄え、その子孫が今日、京都府長岡京市に住している事がわかっています。

 金沢野田山墓地には、27坪の墓地と共に、向田家香林坊家の墓が発見され、「向田家2代目は姓は佐々布、世々朝倉家之臣也。朝倉家没後、比叡山之回峰行者と相成り、向田家娘智養子となりて家相続す・・・丸薬師となり藩主前田利家公の眼病を治し・・・」(香林坊家記より)と刻されている。都合30代、近江、越前、加賀と激動の世を朝倉家、前田家に仕え、家運隆昌にして、人々から慕われ今日その名、香林坊が金沢の町名として残るに至りました。

 金沢香林坊と掟光寺平吹城跡地とは、実家親元の地縁です。2007年(平成19年)4月28日、香林坊一族が霊験をうけた古佛、柿の木畑利益地蔵尊が発見され、金沢アトリオ大和の角地に地蔵堂が建立され、遷座開眼供養が奉行され、現在まで受け継がれています。